独立開業の経緯(3) 営業部(大阪)へ異動

28歳の時、IT関連業務を3年半担当した後に、営業部に異動となりました。これは、折角商社に入ったのだから、営業部で経験したい、と上司に希望を出していたのを、受け入れてくれたのです。決してIT関連業務がいやだったわけではなく、むしろ仕事が面白くなってきた頃なのですが、30歳を超えてから営業の仕事をするのは難しいと思っていたし、このままだとITしか分からない社員になってしまうのではないか、ということを気にしていたのです。

異動先は大阪でした。私は住んだことがありません。ITの業務で何回も大阪に出張しましたが、大阪の事務職の方々のウェットで強烈なキャラクターは、不慣れな私には不安要素でした。大阪の方には失礼かもしれませんが、なんでもずけずけ言ってくるし、だめならだめであっけらかんとしていて、自分にはついていけるのか、と思ったものです。

仕事は国内の問屋さんのフォローで、ひたすら国内営業です。酒・麻雀・ゴルフのどれか2つはできないといけない、と上司言われて、酒がダメな私は必然的に麻雀とゴルフが必須科目となりました。私はどちらもやったことがありません。さらには自動車免許も持っていなかったので、これもとらなければなりません。免許はすぐとりましたが、7年間の大阪時代で、結局どれもモノにはなりませんでした。

しかし営業の仕事は自分の基礎になりました。今では取引先の事務所に行くのには、受付を通して来客会議室で打ち合わせ、となりますが、当時はそんなものはなく、勝手に事務所に入っていって、「まいど!」と言えば、お客さんも自分の仕事の手を止めて、相手をしてくれます。最初の頃は大失敗もありました。

値段交渉か何かの時に、私の態度が悪く、「おまえは出入禁止や!」と言われて1年位本当に会ってくれないコワモテ課長がいました。上司は私を担当から外さずフォローしてくれて、私も毎週事務所を訪ねるうちに、やっと会ってくれたりしました。先日30年ぶり位にお会いしましたが、「おまえも成長したなぁ」などと言われて、恐縮したものです。

私はITがどんなに発達して、Zoomなどでリモート会議ができても、人間関係作りはFace to Faceに勝るものはない、と思っていますが、それは大阪時代の経験がもとになっているような気がします。

投稿者プロフィール

小笠原 裕
小笠原 裕中小企業診断士 行政書士
バラの咲く街、八千代市緑が丘で、コンサルティング事務所を運営しています。