独立開業の経緯(7) 関係会社(マレーシア)の清算

ところが、2008年にリーマンショックが発生し、状況が一変します。最初はアメリカでの事件かと思っていたら、あっという間に世界の景気が悪化し、私の会社もおおきく影響を受けました。

日本でも状況は厳しく、多くの会社が倒産したというニュースが報道されました。特に心が痛んだのは、会社の社長が自殺するというニュースです。借金が返せず、従業員も解雇し、申し訳ないということで将来を悲観して、生命保険に入った上で自ら命を絶ってしまうのです。私は同じような立場にいたので、気持ちがわかります。「ジリ貧」という言葉が、実感を持ってわかりました。なにをやっても、どうもがいても、ジリジリと貧乏になっていくのです。

私の会社は、元々が赤字でしたが、さらに注文量・価格が激減し、状況が急激に悪化しました。当時は時価評価会計が標準になり始めたことで、私の会社も時価評価の対象となり、赤字が続いていたことから収益性がないとみなされ、会計監査の結果固定資産をほぼゼロ評価されました。その結果一気に債務超過となりました。検討の結果、資産は売却、従業員は全員解雇、会社は清算ということになりました。

しかたがないこととは言え、とてもつらいことです。世話になった取引先に対しても申し訳ないし、特に従業員を全員解雇し、自分はのうのうと本社に戻るというのは、なんともやりきれない思いがありました。それでも会社の方針ですので、資産売却や従業員解雇を計画通り進めました。取引先への供給責任があるので、稼働最終日まで従業員に全員残ってもらう必要があります。最終日までいた人には退職金を加算するという条件を提示し、従業員は残ってくれましたが、最終日のよる解散会を行い、そこにも皆さんは参加しました。そして「お世話になりました」などと言って手を握ってくれるのです。私は今でもその時のことを思うと、涙が出ます。

また、こういう会社に対して、本社は本当に協力的でした。資産売却についてもいろいろ助言してくれたし、従業員解雇についても、本社に報告しながら進めました。社長としては、相談相手がいることが、どれだけ力になるものかと思ったものです。

私は、この経験が人生の転機になりました。会社はつぶしちゃいけない、孤独な社長の相談相手になりたい。これがこの後の自分の仕事の大きなモチベーションとなっていると思います。

投稿者プロフィール

小笠原 裕
小笠原 裕中小企業診断士 行政書士
バラの咲く街、八千代市緑が丘で、コンサルティング事務所を運営しています。